石鳥谷図書館さんの企画展示の中でもかなり歴史のある『実はすごい!石鳥谷の「匠」展』
毎回、石鳥谷地域で優れた技能を持った「匠」を取材し、関連図書と共にご紹介されています。
石鳥谷図書館さんのご協力により、コラボ企画が実現✨
石鳥谷の匠シリーズとして、石鳥谷地域情報発信サイト DO・RI・YAへ掲載させていただいております! ぜひお楽しみください。
石鳥谷町好地在住。1972年(昭和47年)4月に石鳥谷町文化財調査委員に就任。石鳥谷町内の石碑や歴史を調査し、平成18年 現花巻市として合併するまで、「広報いしどりや」に20年以上コラムを連載した。研究成果を市の報告書や自らの著書にまとめたほか、『図説 花巻・北上・遠野・和賀・稗貫の歴史』など出版物への執筆協力、県立博物館への調査協力、史跡の案内板における説明文など随所に成果を残している。現花巻市となってからは、石鳥谷農業伝承館長、花巻市石鳥谷歴史民俗資料館長、花巻市文化財保護審議会委員、同会会長(令和3年度まで)を歴任し、文化財の保護と活用に尽力した。また、1977年(昭和52年)から通算30年間、岩手県文化財保護指導員としても活躍した。
現在は、花巻市史編さん委員を務めており、ライフワークとして歴史の調査も続けている。
―――1972年(昭和47年)から石鳥谷町文化財調査委員に就任し、その後も石鳥谷歴史民俗資料館長など、歴史調査や文化財に関する役職を担ってきた菊池さん。調査の成果をまとめた資料も、たくさん図書館にご寄贈いただいています。郷土史を調べるきっかけは、何だったのでしょうか?
歴史にやっぱり興味があって、「菊池」姓のルーツ、自分の家のルーツを調べていました。
本家や分家、お墓、菩提寺などのほか、町内の八日市、八重畑、八幡、町外で菊池姓の多い大迫町亀ヶ森、紫波町佐比内、矢巾町徳田、東和町安俵、小山田、江刺市岩谷堂、水沢、一関なども調べて歩きました。また「菊池」姓の発祥地とされている九州の熊本県菊池市、菊池神社には何回も手紙を出して教えを受けました。菊池神社の宮司が東北探訪でこちらに来たとき、石鳥谷にも寄り、そのときは調べて来た県内の菊池姓の歴史などを話しました。
菊池姓の調査と兼ねて、町内の石碑の調査も行いました。調査は4、5年かかりました。自分の家の周辺ばかりでなく、町内全域を回って調べました。
そうしたことをしていたので、町文化財調査委員に委嘱されたのでしょう。そのときは、27、28歳だったと思います。
小さい頃から地理とか歴史など、社会科には興味をもっていました。昔の人たちはいろいろ身近な話をしていました。テレビも何もない時代。食事のときなどには親戚の話、地域の話などのほか、周辺の出来事や年中行事など、多くのことを話していました。
―――菊池姓といえば、史跡「菊池数馬の墓」のところにある案内板の説明文も、菊池さんが書いていらっしゃいますが、それまでは、資料はあまりなかったのでしょうか?
そんなに資料はありませんでした。年配者に聞いたり、関係のある家を訪ねたり、墓碑を調べたり、また江戸時代の古文書などを調べたりして書きました。
説明板はふるさと創生事業のとき、建てたものです。各々の地域にお金が出たことがあります。地域ではこのとき、花を植えるということでしたが、水をかける心配もあり、史跡の説明板に変更しました。上口地区には境塚や境渡(船場)など、調べればたくさんの遺跡や史跡があります。
―――文化財調査委員は、役場職員ではないのでしょうか。別のお仕事をしながら、歴史の調査をされていたのですか?
文化財調査委員は、役場職員ではなく、必要に応じて出勤するものです。本業は、花巻電鉄で仕事をしていました。花巻温泉駅で、切符の販売や荷物の受付などをしていました。(花巻市材木町公園に、花巻電鉄の車両が保存されているが)ほとんどはあれより大きな車両(電車)でした。
花巻電鉄がなくなったあとは、大学生協に入り、不動産の資格を取っていたので、学生に下宿やアパートの斡旋を行いました。
仕事をしながら、家に帰ってから歴史のことを行い、「広報いしどりや」の原稿を書いていました。昼休みなどを利用して、盛岡市立図書館に通って調べものをし、休みの日には県立図書館に通いました。広報には毎月1回、原稿を書き写真も自分で撮って出さなければならなかったので大変でした。働きながらで、月1回といっても、すぐ締切日が来ますからね。
―――歴史を調べていて、面白いと思うことや苦労されたことはどのようなことですか?
面白い(楽しい)ことは、何年も調査して、それが分かったときです。その人に聞けば分かるのではないか、そこに行けば分かるのではないかと期待をこめて行っても成果がないことが何回もあります。いくら好きといっても簡単なことではないですよ。
苦労したのは、昭和40年代。今のように自動車も普及していなかった時代でしたので、調査は自転車で行いました。石碑の調査は町内全域を歩かなければならなかったので、遠くにも行かなければなりませんでした。朝天気が良くて、傘も持たないで出て行くと曇って雨になり、ずぶ濡れになって、ノートに書いたものがしみたことがあります。こうしたことが、1回や2回ではありませんでした。道路は未舗装で砂利道。その後はバイクで調査しましたが、バイクでも自転車でも雪道で何回も転んだことがあります。
―――何か調査するときは、いつも現地へ行くのですか?
何か調べるとき、分からないことがあれば現地に行って調べます。そこに行って確認する、そして周辺の人に聞く、その人が知らなければ知っている人を紹介してもらう、そしてその人に行って聞くことにしています。行けば歴史的な情景などが浮かんで来ることがあります。調べれば今までのことが間違っていることも結構あります。人が書いたものをただ写すだけだと間違いもあります。まず現地に行って調べることを基本にしています。
―――お話を聞きに行くと、皆さん教えて下さるものですか?
分かっていれば教えてくれました。分からなければ、分かる人を紹介してくれました。また実際にその場に案内してくれる人もいました。高齢の方たちは、周囲のこととか、歴史の古い家とか、自分が歩んだ道とか、学校時代のこと、苦労したこと、楽しかったことなどを話してくれました。聞けば結構楽しく話してくれました。
今まで1000人以上の人に聞いたと思います。途中からは聞き書き(※必要な情報のみを抜き出して記録するのではなく、話し手が語った内容に沿って記録すること)としてファイルに保存しています。聞き始めた頃は明治・大正生まれの方たちが元気な時代でしたので、今になって思えば、これらの人からもっといろいろなことを聞いておけばよかったと思っています。昔の人たちは、聞けば、何かを答えてくれました。時代が変わって、これからは話を聞いても答えられる方がいなくなるでしょう。父母や祖父母をはじめ、昔のことをいろいろ知っている人が元気だったときに、もっともっと聞いておけば良かったと話す方が結構います。
広報の連載を始めてから、あなたが菊池さんだったのと言われることがあります。今も話す方がいるし、その縁で交流している方もいます。取材当時に応じてくれた方で、亡くなった方がたくさんいます。
―――当時の方は、どうしてそんなに地域のことに詳しかったのでしょう?
昔は、今と違って人と接する機会が多くあったからだと思います。例えば回覧板などを隣の家に持って行った場合、何か話をしたと思うし、地域の集まりなども結構多くあったと思います。そこで出来事や情報などを知ることができたと思います。そうしたことで、地域や周辺のことにも詳しかったのではなかったかと思います。
後編へ続く…
※こちらの記事は、石鳥谷図書館にて2025年2月5日(水)~4月30日(水)に展示されたものを、許可を得て転載しています。