石鳥谷図書館さんの企画展示の中でもかなり歴史のある『実はすごい!石鳥谷の「匠」展』
毎回、石鳥谷地域で優れた技能を持った「匠」を取材し、関連図書と共にご紹介されています。
石鳥谷図書館さんのご協力により、コラボ企画が実現✨
石鳥谷の匠シリーズとして、石鳥谷地域情報発信サイト DO・RI・YAへ掲載させていただいております! ぜひお楽しみください。
競輪選手の佐藤友和さんは花巻市石鳥谷町出身。中学生のときはサッカーをされており、競輪に触れたのは高校生になってからでした。
高校卒業後は日本競輪学校(現日本競輪選手養成所)に進み、約1年間訓練をした後、選手となりました。
デビュー戦は2003年7月。A級3班からスタートされ、2年ほどの間に成績を重ねた後、S級に昇格しました。以来、20年間S級を維持しています。
2007年と2013年には、その年の成績および獲得賞金、上位9名に贈られるベストナインに選ばれました。

【主な受賞歴】
※ポイントレース…
30kmや50kmなどの長距離を走る中で、ポイントを獲得していき、その数を競うレース。5周や10周など一定の距離ごとに、そのとき1~4位で通過した選手にポイントがつく。
佐藤さんが出場した当時は、24kmまたは30kmの距離の中で、2kmに1回、ポイント周回というのがあり、その周回の着順でポイントを得ていた。そして、トータルポイントの多い方が優勝となっていた。

佐藤さんが競輪に興味を持ったのは、中学2年生のときだった。担任の先生に高校の進路を相談する中で、初めて「競輪選手」という職業を知った。
「当時、入りたい高校が特になく、近場なところを選んでほしいと先生に話しました。ただ一つ、条件として将来仕事につながる何かがあるところがいいと伝えたところ、いまの紫波総合高校を勧められました。そこで初めて、自転車競技部という部活があり、さらに競輪選手という職業があることを知りました」
入学後、さっそく自転車競技部に入部したのが競輪選手への道の始まりだった。
高校生のときは、一日100キロメートル以上走ることを目標にした。そのため、部活以外でも自転車に乗る日々を過ごしていた。
朝食の前に1時間ほど練習をするところから一日が始まった。そして、登校する際も自転車に乗り、自宅から約10キロメートルの道を30分くらいかけて学校に向かった。
部活では、毎日約70キロメートルを走っていた。部活後は、寄り道などをしながら少し遠回りをして自宅へ帰っていた。
「選手になるという前提で部活をしていたので、何が何でも高校生の間に1位になろうとか、全国大会で優勝しようとか、そういった欲はありませんでした。選手になってから勝てればいいと思っていたくらいです。でも、強くなるために一生懸命練習はしていました。当時は、自転車に乗っていたら強くなれると思っていたので、一日に最低100キロメートルは走るようにしていました。それでも勝てないときは、選手になってからは負けないからなと思っていました」
また、部活でキャプテンを務めていた佐藤さんは、その役目を通して責任感について学んだ。
「やっぱり目立つ立場にあるので、人にだらしない姿は見せないようにし、やるべきことはしっかりやるようにしました。例えば、練習。自分が練習をしていないのに、後輩に練習をしろとは言えないので、やるべきことをやった上で後輩も育てました。あのとき、キャプテンを務めたことで、立場のふるまい方を覚えることができました」

佐藤さんは、S級に昇格してから20年間ランクを維持している。維持する上で、自分自身を失望させないということを一番に心掛けている。
「自分を嫌いになりたくないです。なので、苦しいと思っても練習はします。練習をしないで、自分はさぼっているなと思ったら、それはもう自分自身に対しての失望になると思います」
また、応援してくれるファンの力も大きい。
「競輪について担任の先生から聞いたときに、『競輪選手は自分で努力した分だけ収入につながる』という形に魅力を感じました。でも、それだけではありませんでした。当時はわかりませんでしたが、実際に走ってみるとファンからの賞賛がありました。ファンがいて、そのファンからの声援を耳にすると、この仕事をやっていて良かったなとしみじみ思います。だから、情けない姿をファンには見せたくないと思うと頑張れます」
競輪選手は、月に2回のレースが保証されている。出場した大会の中でも、佐藤さんは2010年8月5日に、栃木県宇都宮市の宇都宮競輪場で行われたGⅠの全日本選抜競輪で優勝したときが一番思い出深いという。
GⅠは、半年間の選考期間内に成績を残し、上位108名に入った選手だけが出場できるレースである。
佐藤さんは、それまでもGⅠに出場したことがあり、決勝にも残っていたが優勝ができなかった。そういった経験を6回味わった。
「過去にも、実力があっても優勝できない選手がいて、運を持っていないんだなという言われ方をしていました。自分ももしかしたら、脚力や実力はあるけど運というのがついていない選手なのかなと思っていた時期でした」
しかし、7回目のレースでついに優勝を果たし、ようやく肩の力が抜けたという。
「ほっとしました。自分にも運があったんだなと安心しました」

佐藤さんは2回目の優勝を果たした30歳くらいのころから、成績が少し落ちたことがあった。その際、競輪選手を辞めようかなという葛藤があった。
「それまでは当たり前に勝ってきて、やりたいことをやれば結果もついてきました。なので、レースについて考えることも楽しかったです。なかなか優勝につながらなくても、試行錯誤すると何かプラスになっていました。けれど、そのころは何をやってもうまくいきませんでした」
つらい時期を乗り越えられたのは、応援してくれるファンの力があった。佐藤さんは、毎年秋ごろに、花巻市石鳥谷町のクラップ石鳥谷でファンとの交流会を開いている。
「交流会の中で、ファンの方々の『ずっと応援している』、『戻るのを期待している』という声が頑張る糧になりました」
また、目標の設定をし直したことも乗り越えることができた理由の一つだという。
佐藤さんの20代のころの目標は、日本一になることだった。しかし、デビューするときまでは日本一になろうとは思っていなかった。
「競輪選手になると決めたときは、生活をするための職業としてこの世界を選びました。当時だと40歳くらいで引退というのが多かったので、40歳までの20年間は生活していけるかなと考えていました。そして、引退してからはまた新たな人生を歩もうかなと思っていました。けれど、実際にやってみたら考えていた以上に楽しかったし、いまも楽しいです」
佐藤さんはそれまで、成績が伸び悩んだときは調子のいいときの自分を思い続けていた。しかし、30代になり自分の体力や年齢でできることを見つめ直したときに、20代のときと同じ目標のままだったことで、知らず知らずのうちに自分を追い詰めてしまっていたことに気づいた。
「それがつらくなり、30代になったときから結果を残すということにとらわれず、プロセスを大事にするようにしました。自分のやるべきことをやって、それについてくる結果でいいんじゃないかと思うようになりました。そしたら、また成績が良くなってきました。楽しみが見つかった。そんな感じがしました」
この経験からいまでは、指導している後輩たちにも同じようなことを教えているという。
「競技で結果を求めるということは競走相手もいることが前提になるので、難しいです。ただ、その結果に向けて何をやるかが大切だと思っています。やりきったのであれば、結果がどうであれ、自分にはプラスになる。そう教えています」
今年2月に42歳となった佐藤さんのいまの目標は、競輪選手を長く続けること。始めたころは、40歳ごろに引退すると考えていた。そのため、20代のころからお酒を交えながらいろいろな人と交流し、引退した後のことを考えて話をするようにしていたという。
「競輪選手などのプロスポーツ選手は、多くの男性にとってあこがれの対象となる仕事でした。なので、競輪選手であることを話すと、お酒の場の雰囲気も加わって初対面の人ともコミュニケーションが取りやすかったです」
そういったライフプランを立てていたため、いろいろな人と会ってさまざまな話を聞き、引退後の職業の選択肢を広げようとしていた。しかし、まだ模索しているという。
「自分の仕事と比較しながらいろいろな人と会い、多種多様な職業について聞きましたが、やっぱりいまやっている競輪選手が自分に合っていると思いました。辞めた後のことはまだ考えられません。いまの目標は55歳。40歳になったときに、55歳で生涯成績、勝利数を500にしたいと決めました」
お酒を飲みながら初めて会う人と話をすることで、さまざまな職業を知るきっかけになっただけでなく、いろいろなご縁もできた。そのため、佐藤さんはリフレッシュをしたいとき、人と話すためにお酒を飲みに出かけている。
後編へ続く…
※こちらの記事は、石鳥谷図書館にて2025年8月2日(土)~11月2日(日)に展示されたものを、許可を得て転載しています。