石鳥谷図書館さんの企画展示の中でもかなり歴史のある『実はすごい!石鳥谷の「匠」展』
毎回、石鳥谷地域で優れた技能を持った「匠」を取材し、関連図書と共にご紹介されています。
石鳥谷の冬の風物詩でもある、たろし滝。
古くから地域に根づいた存在で、その年の作柄を占ってきました。
今回の匠展では、たろし滝の大切さを、後世に伝え残していくために、保存会を立ち上げ、長く活動されてきた、板垣寛さんにお話を聞かせていただきました。
後編、スタートです!
⇒ 前編は こちら から
大冷害だった翌年の平成6年(1994)、首都大学東京の理学博士である松山洋氏が、たろし滝に関する岩手日報の記事に関心を持ち、板垣さんを訪ねて来られました。そのご縁から、松山氏の講演会が行われました。お話の中で「このたろし滝の占いが及ぶ範囲は、東アジア全域を網羅しています」と言われたそうです。
「それを聞いて我々の取り組みは岩手県内にとどまらず、東アジアまでの広範囲に渡っていることを知り、改めてしっかり取り組まねばと身が引き締まる思いでした」
ある年、立派な氷柱となったたろし滝を見た人から「本当に今年は豊作になるんだべな」と言われたことがあり、「これはあくまでも占いですから、責任は取れません。しかし、浅はかな人智の及ばない、自然の運気の現れですから、その流れに乗って努力すれば、豊作も可能でしょう」と答えたのだそうです。
測定会のあとで、会長による川柳が発表されます。いまでは名物企画として楽しみにされている方も多いと思いますが、川柳を詠むようになったのには理由がありました。
「もともと口下手で人前で話をするのが苦手なもので、来場者が増えるにつれて、何かいい方法はないかと考え、川柳にして一言で伝えることを思いつきました」
実は、石鳥谷には『石鳥谷川柳会』があり、板垣さんはその初代会長なのです。
「昭和57年(1982)に今は亡き細川一紗さん(石鳥谷町出身で川柳の大先輩)から、石鳥谷町を川柳不毛の地にしてはだめですよと言われ『石鳥谷川柳会』の初代会長に推されました。29年間21名の会員の会長を務めさせていただきました」
印象に残っている川柳について聞いてみました。
「自分はいつまでたってもヘボ川柳しかつくれませんが、たろし滝測定会で詠んだ川柳は、比較的拍手が多かったことも何回かありましたね」
宮沢賢治がたろし滝に行ったという記録は残っていないようですが、石鳥谷とのつながりはいくつもあります。石鳥谷町好地にあった、肥料相談所の様子を詠んだ『三月』や、地質調査で訪れた葛丸で、野宿したときのことを基にした短歌『葛丸』、童話『楢の木大学士の野宿』など、作品として残されています。
また、板垣さんのお父様の亮一さんは、宮沢賢治の教え子であり、板垣さんも『石鳥谷賢治の会』の初代会長を長く務められました。お父様から聞いた賢治の教えの中で、「稲作に取り組む際は一日の風の吹き具合や空を見て天候の変わり目に敏感にならなければならない。一日の寒暖の差を注意して記録しなさい」との言葉があったそうです。
「その言葉を思い出したとき、たろし滝を測定することは、賢治さんの教えにも合致することだなと思いました」
ご自身のこれまでの活動を形として残すべく、『巨大氷柱 たろし滝 ―氷柱測定に集う人々の願いとその記録―』という本を出版されています。この先もたろし滝を後世に残していきたいとの強い思いから、その記録を残す思いで筆をとったとのことでした。
活動を続けることで、日本気象協会からも、たろし滝の太り具合について確認の連絡がくるようになったそうです。定時定点観測であることが信頼できるデータとなっているそうで、民間人でこのようなデータを取っているところは例を見ない、この先も継続して欲しいと言われるほどに。
「この記録を継続して守っていかなければならないと、たろし滝測定保存会のこれからを担う若手にも話をしています」
一番印象に残っている年のことを聞くと、たろし滝の胴回りが8mだった昭和53年(1978)だそうです。
「その年は雪も多く、震えるほどの寒さが続いたことを今でも覚えています。そして、史上空前の大豊作だったので、とても印象に残っています」
47年間務められた会長を退いてからも、毎年たろし滝に通い、今でも見守り続けているとのことでした。
測定会は今年で50回となります。板垣さんの人生の半分を共にしてきたたろし滝について、最後にこんな質問をしてみました。
「これからも100年、200年と計測を維持していくことで、すべての人の『道標(みちしるべ)』になると思っています」
※こちらの記事は、石鳥谷図書館にて2024年2月11日(日)~5月12日(日)に展示されたものを、許可を得て転載しています。
※たろし滝については、おすすめスポット>葛丸川渓流・たろし滝もご覧ください!